人生の主役

反射的にする反応について、なぜそういう反応をするのかを説明するとき、「私はそういう人間だから」と説明するより、「私はこのように自分を作り上げたから」と言うべきである場合が多い。キリスト信者の人格鍛錬についての記事

「君たちにお願いしたいことは、よりよい世界を作るという任務に取り組むことです。愛する若者たち、どうか人生の解説者になるのではなく、主役になって人生を築いて下さい。イエスは世界の外から人々を観察したのではなく、その中に入って行かれました。君たちも同じようにして欲しいと思います」(教皇フランシスコ、2013年7月27日の講話)。教皇様はこのように若者たちに要求された後、すぐに問われた。「では、どこから始めようか。これを始めるように誰に頼めばよいのか。君たちと私からだ。一人一人、再び沈黙の中で、自分に尋ねるのだ。もし私から始めねばならないのなら、どこから始めようか、と。一人一人が心を開き、イエスから答えに耳を傾けよう」と。世界の歴史を動かす人になりたければ、まず私たちが自分を作り上げる必要がある。

自由と制約

自らの人生を作り上げようと主張することは、人格というものは家族や社会の環境から制約を受けるにしても、それらによって完全に決定されているというわけでないことを認めることである。生まれつきの体質や遺伝的要素から来る本能的な部分についても同じことが言える。つまり、それらは人の傾向をある程度決定するとしても、理性と意志の力でそれを修正し方向づけることができる。

私たちの人格は自由な決定をとり続けることによって鍛えられる。というのは、人が自由に行動するとき、彼の外側の世界を変えるだけではなく、本人のあり方も変えるからである。例えば、他人のものを盗む人は、他人に迷惑をかけると同時に自分を泥棒にしていく。よく働く人は、人々に役に立つことをするだけでなく、自分は勤勉な人になっていくのである。ほとんど無意識のこともあるが、人は同じ行為を繰り返すことによって一定の習慣を身につけ、現実に対して一定の態度を取るようになる。それゆえ、ほとんど反射的にする反応について、なぜそういう反応をするのかを説明するとき、「私はもともとこう言う人間だから」と言うより、「私はこのように自分を作り上げたから」と言うべきである場合が多い。

人間は多くの場合どうしようもない制約に縛られている。例えば、生まれ育った家族や社会、人の可能性を狭める病気や障害など。それらを直すことは普通は無理だが、それらに対してとる態度を変えることは可能である。なかでも神はすべてを配慮して下さることを思い出すなら。「イエスは、特に恵まれた人々にだけ向かって話しかけられたのではなく、神の広く大きな愛を証すために来られたということを絶えず繰り返して教える必要があります。人はみな神に愛され、そして神は、全ての人間から愛を待っておられるのです」(聖ホセマリア、『知識の香』110)。どんな状況の中でも、たとえ大きな制約の中でさえ私たちは神と隣人に、どんなに小さなものに見えようが、愛の業を差し出すことができる。苦しみの中でのほほえみ、十字架と一致して主に捧げられた苦痛、逆境を忍耐強く受け入れること、これらがどれほどの価値を持つことか。苦しみも、孤独も、人々から忘れ去られることも、裏切りも、中傷も、肉体的精神的苦痛も、死でさえも、すべてを愛しようとする人の愛に打ち勝つことはできない。

自分の人生の作者になる

人はやる気さえあれば、自分の才能 ―徳、能力、競争力― を発見し感謝し、それをできるだけよく使おうとすることができる。しかし、キリスト教的な人格を形成するのに最も大切なのは、人の最も深いところに影響を及ぼす神の賜であることを忘れてはならない。この賜の中で、神の子の身分という巨大な賜が際立っている。この賜のおかげで、父なる神はわたしたちのうちにイエスキリストの像を ―制限された仕方であるとはいえ― ご覧になる。それは洗礼によって与えられ、堅信によって強められ、赦しの秘跡と、なかでも御体と御血の拝領によってますます明らかに現れる。

神から頂くこれらの賜を土台にして、望むと望まないに関わらず、一人一人が自分の存在を形づくっていく。聖ヨハネ・パウロ2世は芸術家たちとの謁見の際に「一人一人に、自分の人生の創作者になるという勤めが与えられています。自分という材料を使って、芸術品、傑作を作り上げていくのです」と語られた(1999年4月4日の講話)。私たちは自分の行いの主人である。主は「はじめに人間を造られ、人間をその意志のままに任せられた」(シラ、15章14)。私たちも、もしそう望むなら、嵐や困難の中でも車のハンドルをきって進むことができる。

私たちが自由であることを意識するとき、何かしらの不安を感じることもある。失敗したらどうしよう、と。しかし、自由であることはなんといっても喜びではなかろうか。「神は人間を自由な存在としてお造りになったとき、危険な冒険をされたということができます。私たちが心から望んだ生き方をするように、お望みになったのです」(聖ホセマリア、「信仰の豊かさ」、1969年11月2日の『ABC』紙に掲載)。この冒険の中で、私たちは一人ぼっちではない。まず神ご自身の助けがある。次に家族や友人、さらにはたまたま人生の途上で出会った人の協力もある。自分の人生の主役になるということは、多くの面で周囲に依存していることを否定する事ではない。そしてこの依存が相互であると考えたなら、私たちは互いに依存し合って生きている存在であるということができよう。それゆえ、自由とはそれだけで足りるのではない。もし自由を偉大で壮大なことのために使わないなら、内容のない空虚なものに成り下がる。次に見るように、自由とは捧げるためにある、別の言い方をするなら、捧げられた自由というものしかないのだ。

多様な歩み方

聖ホセマリアは、スペイン内戦の直後にバレンシアの破壊された家で見つけた張り紙に書いてあった標語を少なからぬ機会に説教などで引用した。それは「旅人よ、それぞれ己が道を進め」というものである。一人一人は自分の受けた召し出しを各人独特の仕方で生きる。「右側でも、左側でも、ジグザグでも、歩行でも、馬に乗ってでも、どんな行き方でも構わない。神の道を行く行き方は無数にある」(聖ホセマリア、1945年2月2日の手紙、19)。一人一人が自分の聖性の劇の主役である。一人一人が、周囲の出来事に流されるままになることを拒むなら、人生のあらゆる段階で自己の存在と人格を独自の仕方で作り上げていくことができる。

「重ねて言いますが、奴隷のようにではなく、自由な子として主のお示しになった道を歩みます。自由で軽快な歩みを神の賜として味わうのです」(聖ホセマリア、『神の朋友』35)。この爽やかさ、すなわち自己を支配する能力は、自分の行動に責任を持つことと、自分が神の作品であることを自覚することと切り離されない。私たちに応答を要求する無条件の愛を経験するに従って現実になっていく神に近づくという夢である。神の愛は、私たちの自由を肯定し、その恩寵によって思いも寄らない水準にまで高めてくれるのである。

神と隣人の助け

神のご計画によれば、人生は他人と分かち合うようにできている。つまり神は私たちが互いに助け合うようにお望みになった。それは日々我々が目にしている。たとえば、人が生きていくのに最も基本的なことでさえ、一人ですべてできるわけではない。誰一人としてまったく他人との関わりなしに生きていくことはできない。より深いところに目をやれば、人は誰かに心を開いて、人生を共有し、愛し愛される必要を感じていることがわかる。「だれも独りで生きることはありません。だれも独りで罪を犯すのではありません。だれも独りで救われるのではありません。他の人の人生は、わたしの人生の中に入り込み続けています。わたしの思い、ことば、行い、なし遂げることの中に入り込み続けています。逆にわたしの人生も他の人の人生の中に入り込みます。そして良い結果も悪い結果も生み出します」(『希望による救い』、48)。

他人に心を開くというこの自然な傾きは、イエス・キリストの救いの計画において最高の働きを見せる。それが『使徒信経』で唱える「聖徒の交わりを信じます」という信仰である。それは教会の信者間の交流を指す。霊的生活においても他の人々の助けに頼らねばならない。信仰を受けたのは両親やカテキスタを通じてであるし、秘跡を受けるのも教会の奉仕者がいなければ不可能である。また信仰における兄弟から霊的な助言を受け、祈ってもらうことも必要である、など。

キリスト教生活において誰かに付き添ってもらっていることを知るのは喜びと安心をもたらすが、だからといって聖性に達するための本人の努力が免除されると考えてはいけない。聖ホセマリアは霊的生活にふれながら、「助言を受けたからと言って、本人の責任がなくなるわけではない」と言い、「霊的指導とは、人々を正しい判断基準を持ち自分で判断できる人にすることだ」と強調していた(10)。何かの決心をするときは、たとえ助言を求めたとしても、最終的に決定するのは本人であるし、自分が下した決定の実現に傾けるべき努力を惜しんではならない。

他人の助けを必要としていることを認めると同時に、霊的生活において隣人を通して光と力を与えて下さるのは神であることを忘れてはならない。これを忘れないなら、私たちの信仰生活において頼りになる人がいない場合も、聖性への道を進み続けるのに不安を感じることはないであろう。神が私たちのそばに置いて下さった人をキリストの心を通して愛し、その助けに深く感謝するとともに、同時にその関係に縛られることなく大きな精神の自由を享受するのである。

無条件に愛する自由

キリスト信者であるわたしたちは、人格の完成が神のやさしい御旨に対して自由に全面的に答えることの結果であることを知っている。私たちが受けた賜は、神の恩寵に対して心を開くときに最も効果的に働く。それは無数の男女の聖人たちの人生を見ればおのずと明らかになる。彼らは主が自己の人生にお入りになるままにさせるとき、その奉仕のために自己を喜んで捧げることができた。聖マリアはお告げを受けたとき、「はっきりと『なれかし』とお答えになりました。これこそ神に自己を捧げる決意です。最高の自由をもつ人の返事です」(『神の朋友』25)。

人間は神を目的として生きようと決心するとき、最も価値あることに自分の夢と力を傾けることになる。そのとき自由の本当の意味を理解する。自由は単に好きなものを選ぶことではなく、自己の人生を決定的に捧げて、偉大なことのために使う能力である、と。自分の持つ才能や資質をキリストに付き従うために使うとき、他の可能性をあきらめねばならないときもあるとしても、幸せを、つまりこの世で100倍、あの世で永遠の命を手に入れる。また、そのことはその人が精神的に立派に成熟していることを示す。なぜなら、確信をもって生きることができる人格を持つ人だけが、自分のすべてを捧げることができるからだ。「だれの強制も受けず自由に、自分で望むからという理由だけで、私は神を選ぶことに決めました」と聖ホセマリアは証言している(『神の朋友』35)。

過去と現在と未来を主にお任せする

神を選択した人はいかなる逆境にもたじろがない内的な平和をもって行動する。「私は誰を信じたかを知っている」(『テモテ後』1,12)。これは殉教を目前にして聖パウロが表した信頼の言葉である。神を人生の土台に据えるなら、揺るぎない安心感に支えられるだけでなく、自己を隣人に捧げることが可能になる。使徒的独身の中であろうが、結婚生活の中であろうが、他のキリスト教的な行き方の中であろうが。これは現在だけでなく過去も未来にも及ぶ献身である。「主よ、わたしの神よ、あなたのみ手に委ねます。過去も現在も未来も、大きなことも小さなことも、わずかなことも多くのことも、この世のことも永遠のことも」(『十字架の道行き』VII n.3)。

過去を変えることは誰にもできない。しかしながら、主は赦しの秘跡において罪を赦すことによって、各自の過去の出来事もきれいに再セットアップして下さる。すべては善のためとなる(ローマ、8、28)。私たちが犯してしまった過ちさえも、もし神の憐れみに頼り、より神に目を向けて生きようとするなら善に変化する。こうして、信頼をもって未来を見ることができる。私たちを愛して下さる御父の手の中にいることを知るからだ。神の御手の中にいるなら、倒れても再び神の御手のなかで立ち上がることができる。

神を選ぶと言うことは、神とともに人生を作り上げていかないかと招待されることである。謙遜に自由という賜をいただいたことを感謝しながら、多くの人たちと手を携えて神から任された使命を果たすために自由を使うことである。そうすれば、神のご計画は私たちの予想を遙かに超えたすばらしいものであることを経験するだろう。聖ホセマリアがある若者にこう言っていた。「神の恩寵が働くにまかせなさい。君の心が飛ぶままにさせなさい。(・・)。自分について小さな夢をみなさい。困難を英雄的に克服していく夢です。神の恩寵に助けられて、それよりずっとすばらしいことが実現するでしょう」(1974年6月29日の団らん)。