王であるキリストの祭日

「 キリストのみ国とは、単なる言い回しでも、修辞上の比喩でもありません」。聖ホセマリアによる王であるキリストの祭日の説教(1970年11月22日)。

宇宙の主であるキリスト

ベトレヘムでお生まれになった愛すべき幼子キリストが、宇宙の主であることを考えてみたいと思います。天と地のありとあらゆるものはすべて彼によって創られたのです。キリストは十字架上で血を流すことによって、天と地の間に平和を確立し、すべてを御父との和解に導かれました[1]。今、キリストは御父の右に座して支配しておられます。白衣を身につけた二位の天使が、主の昇天後に茫然と雲を眺めている使徒たちに言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」[2]

「わたしによって王は君臨」[3]する。しかし、王たちやこの世の権力は過ぎ去るのに反して、キリストの王国は「代々限りなく統べ治められ」[4]、「その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ」[5]のです。

キリストのみ国とは、単なる言い回しでも、修辞上の比喩でもありません。キリストは、人間としても、託身(受肉)においておとりになった体をもって生きておられます。十字架に付けられ、復活された御方は、〈み言葉〉であるペルソナにおいて霊魂と共に、栄光を受けて生きておいでになります。まことの神まことの人であるキリストが、生き、支配しておられるのです。キリストは宇宙の主であり、生きとし生けるものの存在を支えてくださいます。

それなのにどうして、今、栄光に輝く姿をお現しにならないのでしょうか。なんとなれば、キリストのみ国は、この世にあっても、この世には属していない[6]からです。イエスはピラトにお答えになりました、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」[7]。目に見える現世的な権力をメシア(救い主)に求めた人たちは、期待を裏切られました。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」[8]

キリストのみ国とは、真理と正義、すなわち聖霊における平和と喜びであり、人間を救い、歴史が全うされるときに頂点に達する神の働きです。み国の主は天国のいと高き所に座し、人間を最終的に裁くためにおいでになるのです。

キリストが地上で福音を宣べ伝え始められたとき、政治的な活動方針をお示しにはならず、「悔い改めよ。天の国は近づいた」[9]と仰せになり、よき福音を宣べ伝えるように弟子たちに命じ[10]、み国が来ますように[11]との祈りをもってお願いするようお教えになりました。まず求めなければならないもの[12]、実にただ一つ必要なこと[13]、それは、神の国とその正義、聖なる生活なのです。

私たちの主イエス・キリストが宣べ伝えた救いとは、すべての人々を対象とした招きです。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせた」[14]。ですから主は、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」[15]とお教えになったのです。

キリストの愛の要請に自由に従えば、すなわち、新たに生まれ[16]、子どものように素直になり[17]、神から離れさせるものすべてを心から遠ざけるならば[18]、救われない人はいません。イエスは、言葉だけでなく、行いを望んでおられます[19]。また、大胆な努力を待っておられるのです。戦う者だけが天の国を継ぐに価する[20]ものとなることができるからです。

み国の完成、つまり救いか滅びかを決める最終的な裁きはこの世ではなされません。み国は今、種蒔き[21]の時期であり、成長しつつある一粒の芥子種[22]であって、その終わりは、地引網で引き上げる漁にたとえることができます。網が砂浜に引き上げられ、正義を行った人々と悪を働いた人々は分けられてそれぞれの運命に従います[23]。しかし、私たちがこの世に生きている間の天の国とは、女の人がとって三斗の粉の中に入れると膨らんだパン種[24]であると言えるでしょう。

キリストがお教えになるみ国の何たるかを理解できる人なら、すべてをかけてもその国を手に入れようとするはずです。天の国は畑に隠されている宝の如きもので、宝を見出した人は全財産を投げ売ってもそれを手に入れようとするのです[25]。天の国を得るのは困難なことです。確かに手に入れると保証されている人は誰もいないのですから[26]。しかし、痛悔の心をもつ人の謙遜な叫びなら、天国の扉を広く大きく開くこともできます。キリストと共に十字架に付けられた悪人の一人は、主に願いました。「『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」[27]

心の中のみ国

主なる神、なんと偉大なお方でしょう。あなたこそ私たちの生活に超自然の意味と神的な効果をお与えになる方です。自己の弱さが耳に響くときにも、御子の愛ゆえに全力をあげ、全身全霊を込めて、「かれは栄えなければならない」と叫ぶことができるのはあなたのおかげです。私たちが足ばかりでなく[28]、心も頭も泥でできている被造物 ーなんという被造物でしょうー であることをあなたはご存じですから。ただあなたによってのみ、私たちは超自然の生活を続けることができるのです。

キリストが支配なさるのは、何よりもまず、私たちの心です。しかし、どのようにしてお前を支配させるつもりなのかとお尋ねになるとすればどう答えましょうか。私なら次のように答えるでしょう。キリストの支配を実現させるためには、豊かな恩恵が必要です、と。恩恵の助けがあればこそ、最後の鼓動、臨終のときの一息、ぼんやりとした視線、ありふれた言葉、最も人間的な感情に至るまで、王であるキリストに対するホザンナに変えることができるのです。

キリストの支配を望むなら、心を主に捧げることから始めて、終始、首尾一貫した態度をとるべきです。もしそうしないなら、キリストのみ国について話しても、キリスト教的な内容の何もないただの叫び、ありもしない上辺だけの信仰、さらには、人間的でいい加減な仕事のために神の名を偽って利用することになりかねません。

イエスが私の心やあなたの心を支配なさるために、それに相応しい場を整えなければならないというのであれば、諦めてしまって当然でしょう。しかし、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」[29]。おわかりでしょう。イエスはわずか一匹の動物を玉座とすることで満足しておられます。皆さんはどうお思いでしょうか。主のみ前にあってロバのような者だと知っても、私は別に恥ずかしくありません。「わたしはあなたの前でロバ(獣)のようにふるまった。あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしはみもとにとどまることができる」[30]。あなたが手綱を引いてくださるからです。

最近ロバは次第に減ってきましたが、その特徴を考えてご覧なさい。思いだにしないときに人を蹴とばし、不満の声を上げる年老いた頑固なロバではなくて、アンテナのようにピンと張り切った耳をもち、粗食に耐えてよく働き、しっかりとした軽やかな足並みをみせる若いロバのことです。ロバよりもずっと美しく、器用で野性味に富んだ動物がたくさんいます。しかし、キリストは、ご自分を求める民に王としての姿を見せるために、ロバに目を留められたのです。というのも、イエスは計算づくめのずるさ、冷酷な心、中身のない上辺だけの美しさなどに対して話す術をお持ちになりません。わが主は、若々しい心の喜び、気どりのない歩み、作り声ではない声、清らかな目、愛情のこもった言葉にすぐ聞き入る耳を尊重されます。これが主の支配の意味です。

仕えつつ支配する

キリストの支配に心を任せれば、私たちは人々の支配者にではなく、奉仕者となることでしょう。奉仕、これは、私の好きな言葉です。王であるお方に仕え、この王ゆえに、その血によって贖われたすべての人々に仕えること。キリスト信者が奉仕の精神を学ぶことができればと思います。私たちの、この奉仕の精神を学ぶ決心を主に打ち明けて助けをお願いしましょう。奉仕することによってのみ、キリストを知り、愛し、またキリストを人々に知らせ、人々がもっとキリストを愛するようになるからです。

しかし、人々にキリストを知らせる方法とはどのようなものでしょうか。何をするにも、自ら進んでキリストに隷属することによって、主の証人となる、つまり模範を示すのです。主は、生活のあらゆる面における主であり、人間の存在の唯一究極の理由です。その後、つまり模範をもってキリストの証人となってはじめて、言葉で教えを説くことができるのです。そして、これがキリストのやり方でした。「イエスが行い、また教え始めて(…)」[31]。キリストはまず行いによって模範を示し、その後で、神の教えを述べたのです。

キリストゆえに人々に仕えるには徹底的に人間的になる必要があります。万一私たちの生活が非人間的であれば、神は何を建てることもなさらないでしょう。普通は、無秩序や利己主義、権力などの上には何も建設なさらないからです。皆を理解し、誰とも平和に暮らし、誰の過失も追及せず赦さなければなりません。不正なことを正しいとか、神への侮辱を侮辱ではないとか、悪を善であると言うのではありません。しかし、悪に悪を返すのではなく、明確な教えと善い行いを返す、つまり善をもって悪を制する[32]ことにしたいのです。このようにすれば、私たちの心と周囲の人々の心はキリストの支配を容易にすることでしょう。

自らの心に神の愛を抱かず、また神の愛ゆえに人に仕えることをせずに、この世に平和を築こうとする人がいます。しかし、このような仕方で平和をもたらす使命を果たすことなどできるでしょうか。キリストの平和とはキリストのみ国の平和のことです。しかも、わが主のみ国の基礎となるのは聖性への望みと、恩恵を受け入れるための謙遜な心構え、正義にかなった行いに努力を傾け、神がなさるように惜しみなく愛を〈振り撒く〉生活なのです。

(ホセマリア・エスクリバー『知識の香』180−182番)


[1] コロサイ1・11ー16

[2] 使徒言行録1・11

[3] 箴言8・15

[4] 出エジプト15・18

[5] ダニエル3・100

[6] ヨハネ18・36

[7] ヨハネ18・37

[8] ローマ14・17

[9] マタイ3・2、4・17

[10] ルカ10・9参照

[11] マタイ6・10参照

[12] マタイ6・33参照

[13] ルカ10・42参照

[14] マタイ22・2ー3

[15] ルカ17・21

[16] ヨハネ3・5参照

[17] マタイ18・3、5・3、マルコ10・15参照

[18] 「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい」(マタイ19・23)

[19] マタイ7・21参照

[20] マタイ11・12参照

[21] マタイ13・24参照

[22] マタイ13・31ー32参照

[23] マタイ13・47ー48参照

[24] マタイ13・33参照

[25] マタイ13・44ー46参照

[26] マタイ21・43、8・21参照

[27] ルカ23・42ー43

[28] ダニエル2・33参照

[29] ヨハネ12・15

[30] 詩編73・22ー23

[31] 使徒言行録1・1

[32] ローマ12・21参照