​18.イエスの歴史的な存在を否定できますか?

イエスが歴史的に存在していたかどうかについて、懐疑的な人々の批判を避けるために信仰にたよらず、また、キリスト教の立場からの文献を除いても、厳密な歴史的研究によって、次の事柄が確かなことであると分かっています。

キリストを知る

すなわち、ナザレのイエスは1世紀の前半に実際に存在し、生涯の大半をガリラヤで過ごしたユダヤ人であること。そして、彼に従う弟子たちの一団を形成し、弟子たちはイエスの語る言葉や実際に行った立派な行動によりイエスを強く信奉し希望を抱いたこと。イエスは過越祭のために少なくとも一度はユダヤとエルサレムに滞在したこと。最高法院の幾人かのメンバーからは疑念の目で見られ、ローマ帝国の行政府からは警戒視されていたこと。また、これらが原因となって、ローマ帝国のユダヤ総督であったポンティオ・ピラトにより死刑の宣告を受け、十字架に磔にされ死去したこと。イエスの遺体は墓に葬られたものの、数日後に、彼の遺体は無くなっていたことなどです。


 現代の歴史的研究の進展により、これらの出来事を史実として認めることが可能となっています。20世紀も昔の人物について、これほどの資料が残っていることは極めて稀なことであると言わねばなりません。イエスの存在を証明する資料の数に比較すると、歴史上良く知られた人物、たとえばホメロス、ソクラテス、ペリクレス等が歴史的に存在していたことを合理的に示す資料の数は、はるかに少ないのです。

 さらにイエスについて歴史的な資料が提供する情報は、イエスが残した深い足跡とその人物像を描きだすだけでなく、人の想像をはるかに超える事実や、疑い深い人にとって受け入れがたいような出来事までもが記されているのです。これらの歴史的資料は、イエスは新しいダビデとしてその民を統治するために現われるメシアであり、さらにイエスは人となった神の子であるという考えに、私たちを導きます。

 この導きを誠実に受け入れるためには、神からの無償の助けに頼る必要があります。この神の助けは、求める人の知性を照らし、現実の世界の深淵な真理に目を開かせてくれます。そして、この照らしは、現実を歪めて見せるのではなく、むしろ、日常生活において見失っている、現実の持つ豊かな色彩を知覚できるようにしてくれるのです。これこそ信仰の光なのです。