人を成熟させる対話

他人の話しに耳を傾けること、そしてその意見から学ぼうとすることは、愛徳を生きるために必要不可欠な条件である。こうして初めて、日常生活の中で行われる対話によって真理に近づくことが可能になる。「人格形成」についての連載の新しい記事。

「陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、人間は議論によって試される。樹木の手入れは実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けばわかる」(シラ27,5~6)。成熟した人の確かなしるしの一つが、人と内容のある会話ができる能力である。それは、他人に対してオープンな態度をもつことで、暖かい付き合いと人から学びたいという誠実な望みに現れる。

「他の人や別の文化を知ることは、いつも大いに役に立つことで、それによって私たちは成長します。(・・・)。対話は人が成熟するためにとても大切です。というのは、他の人とつきあうことによって、また他文化と接触することによって、さらに他の宗教を知ることによってさえ、私たちは成長し、成熟するからです。なるほど、そこには危険もあります。誰かと対話をしても、心を閉ざし腹を立てることがあるなら、喧嘩になるかも知れません。争いに陥る危険がありますが、これはいけません。なぜなら、対話をするのは人と出会うためであって、喧嘩をするためではないからです。では、対話をして喧嘩をしないためには、どういう心構えをもつべきでしょうか。柔和になることです。柔和とは冷静に他の人や文化を受け入れる能力です。またそれは知性的な質問をする能力でもあります。『君はどうしてそう考えるの』、『この文化はどうしてこうなの』と。相手の言うことに耳を傾けて、それからこちらが話すのです。最初に聞くこと、次に話すことです」(フランシスコ教皇、2013年8月21日の講話)

写真: Ismael Martínez

人に耳を傾けること

聖書は、聞くことができる人には賛辞を惜しまないが、他人の言葉に注意を払わない人には辛辣である。「命を与える懲らしめに聞き従う耳は知恵ある人の中に宿る」(箴言15, 31)。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」(ヤコボ1, 19)。時にはちょっとした皮肉を込めてこう言う。「聞かない者に話すのは、(…)眠っている人を、深い眠りから呼び起こすようなものである」(シラ22, 9)。

他人の言うことを聞かないようにさせる一つの問題は、よくあることだが、相手が話しているとき、その話しと関係のある何かを思い出し、そのことを話そうと相手が話すのを止めるのを待っていることである。そうすると、時には活発な対話が生まれるかも知れないが、実際は相手の言うことはほとんど聞かずに、互いに自分の意見を述べているだけということになる。

また時には、相手が黙っているので、頭を使って会話の糸口を探さないといけないという場合もある。そのような時に注意すべきは、こちらの頭脳の鋭さや博学さをひけらかすようなことを避けることである。それとは逆に、相手の言うことを聞きたい、相手から学びたいと言う態度を示すことである。事実そうすれば、こちらの興味の範囲を日々広げることができる。だから、最初はあまり面白くないように見えることにも注意して耳を傾けるのだ。それは偽善的なことではない。そうではなく、多くの場合自分の判断を差し控えようとする努力、相手を喜ばせ相手から学ぼうとする努力の表れである。

よい会話ができるためには、大胆さと慎重さを、好奇心と分別を両立させることが要求される。軽率な話し方に陥らないよう気をつけねばならない。例えば、軽薄な言葉やピント外れの言葉が思わず口を突いて出た場合、あるいはもう少し慎重に考えるべきだった事柄についてあまりに強く断言した場合など、進んでその発言を修正する覚悟を持つことである。いずれにしても、よい会話はいつも実を残す。例えば、後で議論の最中に出てきたうまい考えやよい説明の仕方が思い出されたり、新しい直観がひらめいたり、こうした考えや印象の交換を続けたいという願望が生まれたりする。

周りに開かれていること

まだ若いのに精神的に老いていく人がいるかと思えば、年老いてからも瑞々しい若さを保っている人もいることを見ると驚きに堪えない。誰もがいまだ使っていない多くの引き出しを内に持っていることを考えるべきである。例えば、まだ利用していない才能、試したことのない能力など。私たちは、いかに忙しく、いかに疲れていようとも、絶えず前進し、絶えず学び、絶えず他の人の考えを受け入れていかねばならないことを思い出そう。

自分自身に閉じこもるのではなく殻を破る必要がある。神に心を開き、神のために隣人に心を開くのである。そうすれば、豊かな現実を私たちの貧弱なものの見方や個人的興味の中に閉じ込めてしまう自己中心主義を克服し、隣人との間に壁を立て、自己の未成熟さを内に暖める何らかの欠点に陥らないように絶えず警戒をしていることになる。その欠点には次のような表れがある。よくわかっていないことについて有無を言わさぬ仕方で断言すること、他人は間違っていると言わんばかりに自分の意見を押しつけること、前もって作り上げた解決法や何度も言われた手垢の付いた助言を与えること、誰かが自分と異なる意見を言うと腹を立てること(そのくせ後から意見の多様性や寛容の精神を擁護するのだが)、周囲にいる誰かが目立つと嫉妬心を抱くこと、相手にも自分にも無理なレベルの完全性を他人に求めること、自分は自己を矯正することに抵抗するのに、他人には誠実さと正直さを要求すること、などである。

成熟さと批判的精神

隣人に対してやさしい心を持つなら、しばしば友人としての助言で助けることができることに気がつく。それを見た人もあったが、直接注意するだけの友情に欠けていたので黙っていたかも知れないことを、相手を信頼して言ってあげるだろう。ただ愛徳に基づいて行動するときだけ、注意や批判は真に有意義で建設的なものになる。「何らかの点で正してあげる必要のある時は、愛徳を忘れず、良い機会を捜し、相手を辱めることなくそうしなさい。しかも、正してあげたことからあなた自身が学び、その点で自己を改善するつもりでなければならない。」(『鍛』455番)

他人を改善させることができるかどうかは、ある程度、わたしたち自身が自分を改善できるかどうかに関係がある。自己改善がいかに難しいか、また同時にそれがいかに大切さですばらしいことかをわきまえているなら、他の人をそれなりに客観的に見て、効果的に助けることができる。自分自身にはっきりと注意することができる人は、他人に対してもいつどのようにそれを言うべきかを心得ており、また自分が注意を受けたときは素直にそれに耳を傾けることができる。

自分に対する批判に耳を傾け受け入れることができるのは、偉大な精神と深い知恵を持っている証拠である。「諭しを愛する人は知識を愛する。懲らしめを憎む者は愚かだ」(箴言12, 1)。とはいえ、他人が言うことを受け入れるということは、いつも何を言われるか、何を言われないかを気にして行動することではない。なぜなら、そのような気遣いはほっておくと最後には病的なものになるからである。時々、立派な仕事をする人は批判の矢面に立たされる。自分は何もしない人たちが、そのよい仕事や生き方を自分の無為の生き方に対する非難と考えて批判するのかも知れない(知恵の書 2,10~20参照)。あるいは、逆の行動をする人たちが、自分たちの敵だと考えて批判することもある。また同じようなことをしている人たちが、嫉妬にかられて批判に走ることもある。ひどいときには、何もしない人たちや自分たちを頼りにしないなら良いことは何もできないと考えている人たちに「赦しを願う」必要があることもある。こういうことが起これば、聖ホセマリアの次の助言を実行する機会が来たと考えよう。「あなたたちと私が沈黙し、祈り、働き、微笑み、そして希望することを習うべき時がきたという証拠である。それらの暴言を気にしないように。彼らを心から愛しなさい。Caritas mea cum omnibus vobis in Christo Iesu(私の愛はキリスト・イエスにおいてあなたたちみんなと共に)」(1964年3月20日、オランダのメンバーへの手紙)。

模範を示す責任

成熟した人は、一方で他人への開かれた態度と、他方で自己の道と信条への忠実を調和させる。ほとんど誰も自分に理解を示してくれない場合でも。周囲が無関心なら、こちらの側にも何か変えるべきことがある、あるいはせめて自分のことをもう少しよく説明する必要があると考えることはよいことである。しかし、私たちの側に決して変えてはならないものもある。何があっても、私たちの言うことを聞かれようが聞かれまいが、褒められようがけなされようが、感謝されようが無視されようが、認められようが否定されようが、守るべきものもあるのだ。「あなたの行ないは信仰の現われだから、衝突によって生じる対照こそ、あなたの持つべき自然さなのだ。」(『道』380番)

良かれと思って尽力しているのに、誰も助けてくれず孤独を感じることは珍しくない。そのようなときもう止めようという強い誘惑が襲ってくるかも知れない。自分の模範や証しはほとんど役に立っていないと見えるだろうが、しかしそうではない。一本のマッチの光は部屋全体を明るくしないにしても、部屋にいる全ての人に見える。おそらく多くの人は、その模範通りに生きることは自分にはできないにしても、自分のできる範囲で真似てみようと考えているのかも知れない。その模範は彼らの改善に役立っているのだ。

誰でも、自分が多くの人たちのよい模範のおかげで助けられたという経験を持っているだろう。しかし、その人たちのほとんどは自分がよい影響で誰かを助けたことに気づいていない。他人によい影響を与えるという責任は重い。「怠慢や悪い模範であなたの兄弟である人々の霊魂を破滅させることは許されない」(『鍛』955番)。私たちは隣人に話しかけ、助言し、励まし、元気づける義務がある。しかし、とりわけ私たちの言葉が、行い、つまり私たちの生き様によって強められるようにせねばならない。それがいつもできるわけはない。いや多くの場合は無理であろう。しかし、みんなの支えになりたいと望み、悪い模範を示したなら心から赦しを願う事ができるように努めねばならない。

一生の戦い

隣人に開かれているということは、人生の一つの課題にどのように進歩しているかと密接に関わっている。その課題とは自分の傲慢を認め謙遜になるために努力することである。傲慢は、隣人との関係において思っても見ないような割れ目から進入してそれを毒する。もし傲慢というものをありのままに見るなら、その姿は吐き気を催させるだろうが、そのために傲慢は極めて巧妙に自分の顔を隠し、仮面をかぶって現れる。傲慢は一見すると積極的な態度の中に隠れているのが普通である。その後、傲慢がもっと強固になると、未熟な人格に固有な、より単純で直裁な現れが目立ってくる。すなわち、病的な猜疑心、絶えず自分について話すこと、虚栄心、きどった振る舞い方や話し方、えらそうな態度、それに反して自己の弱点に気づくときひどく落ち込むことなど。

傲慢は時には賢さの衣をまとう。それは知的傲慢とでも呼べるもので、過度の厳格さとなって現れる。また他の場合、正義を行い真理を守ることを激情的に望むという態度の裏に隠れる。その態度の底には、仕返しをしたいとい望み、自分こそ正しい者で他人は自分に従うべきだという考えがうごめいている。あるいは、何でも正確に決めたい、すべてをきっちり判断したいという望み。つまり、真理に仕える代わりに、真理を言い訳にして自分が誰よりも優れていることを誇示したいという態度である。

完全無欠の健康というものが存在しないと同じように、人の心から傲慢をまったく消し去るということは不可能だ。ただ、私たちにできることは、傲慢が仮面をかぶって現れるとき、できるだけ早くそれを感知し、それに抵抗することだ。傲慢は欠点を極力見させまいとして私たちの面子を守ろうとするので、だまされることもあるだろう。しかし、私たちが自分の傲慢さを認めることができなくても、他人にはそれが見えることがある。友人の注意や建設的な批判に耳を傾けるなら、様々な仕方で隠れている傲慢の仮面を暴くことがより容易になるだろう。隣人に助けてもらうには、謙遜になる必要がある。また、隣人を優しく助けるためにも、謙遜になる必要がある。

つまるところ成熟さとは「常に人のことだけを考える。――このような、言わば〈健全な心理的偏見〉をもつこと」(『鍛』861番)に帰着する。神が私たちにお望みになる人格、-誰もがそれを望むのだが、時々別の場所にそれを探してしまう- その人格は「愛する心、苦しむ心、隣人と一緒に喜ぶ心」(教皇フランシスコの講話。2013年6月17日)を持つに至った人のそれである。