オプス・デイの協力者、短い証言の1

オランダ、ポーランド、レバノン、カザフスタン、イギリス、ドイツの協力者の証言を紹介します。

レーと同じ

ユディットゥ・ゲルブランド

ケルクレイド(オランダ・リンブルフ)在住

バレー教師 私にとって、協力者になるということは一つの挑戦です。自分を超える良いものを常に支えにするということであり、そのためには努力が要求されるからです。時にはダンス教室を頼まれたり、家族のための集まりや青少年のためのクラブ活動の指導を依頼されたりします。数か月前からは、二歳から十歳までの子どもを持ついくつかの家族のためのファミリーオリエンテーション(家庭教育コース)も受け持っています。

私が学んだのは、信仰とは難しいことではないけれども、深める必要があるということです。バレーのクラスの時には、専用の靴を履き、よりよく踊るように努力します。たゆまず練習を重ねない限り、進歩はないのです。


靴の中に神さまを入れる

ヨゼフ・モラヴスキー

ワルシャワ(ポーランド)在住

私は靴屋です。娘のアグニエスカを通じて、オプス・デイを知りました。娘が私に「靴の中に神様を入れること」を教えてくれました。おかげで仕事をよりよくしようという気持ちになれました。私は今、病気のために、仕事の時間を削る必要があります。腎臓移植の順番待ちをしていて、週に三日、透析のために病院に行かなければならないからです。

私は特に、この病気の苦しみや透析、そして医者に言われて長時間歩く必要があるのですが、歩きながら唱えるロザリオの祈りを捧げることで協力しています。


スケットボールから神様との付き合いへ

ラニア・ニコラス

アクラフィエ(レバノン・ベイルート)在住

銀行の上級管理職

バスケットボール仲間の友人を通して、オプス・デイのことを知りました。私の注意を引いたのは、チームの一人ひとりが違った宗教の信者であったのに、全員に対して同じ心遣いを示すことでした。私は正教徒なのですが、彼女は内面の話などに興味を持たないだろうと最初は思っていました。けれども、長い間の練習と対話を通じて、オプス・デイの精神を知ることができ、数年後に協力者となりました。

私が一番気に入っているのは、自分の友人たちが神の友になり、神と親しく接するように助ける彼女のやり方です。


同じ考えだったから

ジェディク・アルマスベコヴィッチ・

マムライノフ

アルマティ(カザフスタン)在住

庭園管理職

私は宗教教育を何も受けたことはなかったのですが、幼い頃から、小鳥のさえずりや山河の美しさを通して創造主である神様のことを考えることがあり、宗教についてもっと知りたいという望みを持っていました。ある日、自宅の隣にオプス・デイのセンターができたことで、その望みがかなったのです。そのセンターで、勉強したり、質問したり、本を読んだりすることができましたし、祈ることも学びました。数年たって、信者ではありませんでしたが、協力者になることを決めました。なぜなら、そこの人たちが若者たちに教えていることは私と同じ考えだったし、何より自分が若い頃に習いたかったことだったからです。神を知り、尊い生き方をすること、仕事のやり方、他人を理解し尊重すること、健全に余暇を過ごすこと…。

その数年後に、洗礼を受けました。聖ホセマリアの教えは、草花の中で過ごす庭師としての仕事を聖化することを助けてくれています。水をやったり肥料を与えたりするときには、神様が私に与えてくださる恵みのことを考えます。花が咲き始めると、すべての人たちの霊的な成長を神様に願っています。


親戚であり友人である

マリー・ジョーンズ

リースヘッド(イギリス・サリー)在住

3人の子どもの母親

協力者は、オプス・デイの人たちにとって親戚であり友人なのだ、と聞いたことがあります。それこそが、私がそうありたいと考えていることです。

属人区が与えてくれる形成の手段に参加して助けてもらっていますし、私の方からは、他の協力者たちと一致しつつ、祈りと他の形での貢献によってオプス・デイを助けています。


病人たちを励ましながら )在住

クリストフ・フラスフォーラー

ヴァットベルク(ドイツ・ボン)在住

ソーシャルワーカー(以前は銀行マン)

三十年以上前にオプス・デイを知り、一年前から協力者です。私はソーシャルワーカーで、病人たちを支援しています。一九九一年に多発性硬化症と診断され、余命七年と宣告されました。時間と共に病気は進行し、今では数歩歩くのにも非常な努力を要します。つい最近になって、書くことも読むこともできなくなりました。しかしながら、医師たちの診断にもかかわらず、病気の宣告を受けてからもう二十年近く生きています。私にはオプス・デイへの召し出しはないと思いますが、オプス・デイとは家族としてつながっていると感じています。日常生活の聖化という教えは、私の大きな助けとなっています。たとえごくわずかなことであっても、私がすることはすべて神とつながっており、無限の価値を持っているのです。これは素晴らしいことだと思います。