紹 介

聖ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル神父が突然天に召されたのは1975年6月でした。

あの日、聖ホセマリアはアルバロ・デル・ポルティーリョ神父とハビエル・エチェバリア神父と共に、当時、聖マリア・コレッジオ・ロマーノのあるカステルガンドルフォのヴィラ・デレ・ロセを訪れました。そこで、気分が悪くなったため、ローマへの帰宅を早めなければなりませんでした。正午少し前、いつもの執務室に入ったところで、エレベーターの扉を閉めるため、後に残っていたハビエル・エチェバリア神父を呼び、さらにすぐ後で、もう一度「ハビ!」と強く呼びました。エチェバリア師が部屋に入ると、弱々しい声で「気分が良くない・・・」と言って、それがこの世での最後の言葉となります。

聖ホセマリアの最後の言葉を聞いたのが、それまでの25年間ずっと一緒に過ごしてきたハビエル・エチェバリア神父です。1948年にオプス・デイのメンバーになった後、1950年からオプス・デイ創立者と近くから接することになります。ことに、1952年、エスクリバー師の秘書となり、さらに1956年、「クストス(守護者、世話係、という意味のラテン語)」の一人に任命されてからは、その繋がりは一層深いものとなりました。「クストス」とは、オプス・デイの規約(固有法)に則り、常に総長(1982年からはプレラートゥス・属人区長)と共に過ごし、毎日の生活と仕事を助ける役目をもつ二人のことです。エチェバリア神父は、特に外的な面において助ける役目を担当していました。つまり、物的なことを配慮し、必要なら気づいた点を、遠慮なく、誠実に注意することです。ローマで、また、60~70年代のあちこちの町や国への旅行においても、常にこの仕事を果たしてきました。
この秘書と「クストス」の仕事は、聖ホセマリアが帰天するまで続きましたが、聖人の晩年には、オプス・デイの中央委員会の顧問も務めました。創立者がその生涯の大部分をすごしたローマのヴィラ・テベレが寝食を共にした緊密な生活の場でした。
そして、現在エチェバリア師は、チリビア名義司教・オプス・デイ属人区長として、同じところに住み、聖ホセマリアが働いていた部屋で働き、日々通っていた廊下を通り、聖人が使用していた小さな寝室で眠り、毎日使っていたもの、見ていた物を使って過ごしています。当然ながら、聖ホセマリアが亡くなった場所、つまり当時オプス・デイ総秘書局の執務室として使われていた部屋は、そのままの状態で維持されており、そこには、特別な色合いで思い出や追想が漂ってきます。
聖ホセマリア・エスクリバーの人となりや教えについて深く知ろうとするなら、アルバロ・デル・ポルティーリョ師に次いで、エチェバリア司教の証言が重要であることは明らかです。それゆえ、1976年に出版された拙書、『ホセマリア・エスクリバー ~オプス・デイ創立者小伝~』において、エチェバリア師に関しては一言も触れていないことを驚かれた読者は少なくありませんでした。その理由は簡単です。創立者の行ったこと、言ったことを後世に伝えるという責任を認識しておられたエチェバリア師にとって、その長期にわたる体験をまとめるためには、他の人たちよりも遥かに多くの時間が必要であったということです。非常に温かみのある人柄と抜きんでた秩序とを調和させておられるエチェバリア師は、オプス・デイ創立者と過ごし始めた最初から、聞いたことを記録してきました。特にエスクリバー師の列福・列聖調査に向かって、その豊かな思い出を入念にまとめてきたのです。
この本を著すにあたり、オプス・デイの精神の新しい側面と、多くの人々が「パドレ」、つまり父親として敬愛した方の生き方と教えとを知っていただこうという望みがあったのは当然ですが、私のしたことはごくわずかだと言えます。質問を考え、目次と表題とを作ったことぐらいです。聖ホセマリアへの信心が広まるに連れて知れ渡ってきた基本的な事柄を省くことなく、同時に、この何年かの間に出てきた疑問や、世論にとって興味深いと思われる点についても触れるようにしました。これだけの権威のある確かな情報を手にする機会と、読者にとって今日その価値が分かる好機を失うわけにはいかなかったからです。にもかかわらず、もしも何かについて読者が「沈黙」があると思われるならば、責任はそのような質問を考え得なかった私にあります。
内容の順序を考えるにあたって、時間的に最後の点から始めるのがふさわしいと考えました。つまり、1992年5月17日に聖座が荘厳に認めたモンセニョール エスクリバー・デ・バラゲル師の聖性についてです。特にそのキリスト者としての生き方、観想生活、英雄的に生きた徳などについて扱いました。つまり、1976年の拙書「小伝」においては、ほとんど触れなかった点です。それは、本書は歴史的な伝記ではなく、聖ホセマリアの霊的な面を知るための手助けとなるべきだと考えるからです。
勿論、オプス・デイの精神が、今日の人びとの、そして文化の現実と結びつく点に焦点をあてることは、私にとっても興味深いものです。この点については、ホセマリア・エスクリバー師の英雄的諸徳についての列聖省が出した教皇令に含まれている視点に沿って、霊性神学の観点から話す必要があると思います。この教皇令は次のように述べています。「『この世の現実の中で、またそれを通して』聖性に向かおうというこのメッセージは、摂理的な現実性を帯びてくる。事実、現在は人間的な価値が高揚されると同時に世界の内在的な見方、つまり世界を神から離して考える傾向が強くなっているからである。さらに、このメッセージは、地上における人間の任務であり不朽の尊厳の印である仕事を通して、神との一致を求めるようキリスト信者を招くので、時代の変化や歴史的な状況を超えて常に霊的な光の尽きない源であり続けるだろう。」(ローマ、1990年4月9日) 1950年、ピオ12世はこの精神を最終的に認可されました。聖ホセマリア・エスクリバーが1928年から説き続けて来た信徒に関する教えおよび神学は、第2バチカン公会議によって教会の教えとなっています。この公会議においては、特別教区と属人区の設置も、パウロ6世のもとで繰り広げられ導入され、後に、ヨハネ・パウロ2世教皇が創立の精神と合致して、オプス・デイに教会法の規定を適用させることを可能にしました。このような背景やオプス・デイの歴史と創立者の生涯との関係を無視することなく、ここでは、私はむしろ、聖ホセマリアの人柄とその精神におけるキリストとの体験およびそのキリスト教的生活に関心をおきました。つまり、20世紀に生き、そして亡くなった一人の聖人の新しい側面を探すことです。