ネバード・レイ博士の証言(要約)

マヌエル・ネバード・レイ博士は1932年5月21日生まれ、1955年サラマンカ大学で医学部一般外課程を修了、一般外科および外傷専門外科医。

マヌエル・ネバード・レイ博士は1932年5月21日生まれ、1955年サラマンカ大学で医学部一般外課程を修了、一般外科および外傷専門外科医。

私は今、アルメンドラレホ(スペインのバダホス県)に住んでいます。バダホス県健康保健センターで外傷の専門医として1962年まで勤めました。1962年にアルメンドラレホへ引越し、1980年までメルセス修道会が経営する病院の院長および一般外科・外傷外科部長を勤めました。この病院でもあらゆる種類の外科処置を手がけ、あいかわらずレントゲンを利用していました。、1982年からはザフラ健康保健センター(バダホス市)で医療活動をするようになりました。

1992年11月上旬、農業省でいくつかの問題について説明を得ようと、マドリッドへ出かけました。スペインがECに加盟した後、大規模ぶどう園がどのような状況に置かれるかを知るためでした。家族が何ヶ所かのぶどう園を所有しており、他のものを栽培する方が有利になるかどうかに関心があったからなのです。

省を尋ねたときは、その分野の担当者が不在で、代わりに農業技師のルイス・エウジェニオ・Bが応対しました。彼は、私の手、特に指が真っ赤であることに気づき、そのことを尋ねたので、X線を長年にわたって浴びたせいで、慢性の不治の病を患っていると説明しました。すると、福者ホセマリア・エスクリバーの祈りのカードを渡してくれました。そして、取次ぎを頼むように勧めてくれたのです。

あの時からすぐに願い始めました。そして数日後、医学の学会に参加するためにウィーンを訪れました。あそこでは本当に感心しました。訪れるどの教会にも、あの福者ホセマリアのカードが置いてあるではありませんか。このことは、勧められた取次ぎをもっと一生懸命にお願いするのに役立ちました。私は我流で取次ぎを願って、カードの祈祷文通りに祈ることはしていませんでしたが、それでも、時々は祈りのカードを使いました。

すでに述べたように、長年にわたって慢性の放射性皮膚炎を患っていました。症状があらわれたのは1962年、ちょうど結婚した年のことです。それ以後、両手の指の体毛が抜け落ち、出血斑が浮き出て、症状は進み、医療活動を減らさなければならない状態になりました。

1992年11月、農業省を訪れたとき、私の手の症状は悪化していました。手の皮膚はあかぎれ状にひび割れ、潰瘍になっていました。潰瘍は指にもできていて、最も目だったのは、左手の甲と中指の側面に広がった大きな潰瘍でした。大きなもので直径2cmはありました。

痛みはますますひどくなり、1992年の夏ごろには、外科処置から手を引かざるを得なくなりました。しかし、できるだけ気づかれないようにしていたので、知っている人はそんなに多くないはずです。また、治る見込みがないので、医者は誰一人として私に手の治療を勧めませんでした。ある医者は、皮膚に軟膏を塗り傷の消毒をするように勧めてくれましたが、既に私はそうしていました。

祈りのカードを頂いた時から、福者ホセマリアの取次ぎを頼み始めました。その時から指は徐々に良くなりました。既に述べたように、この慢性放射線皮膚炎は不治の病で、いかなる治療も役に立ちません。一人の皮膚科医は潰瘍を塞ぐために皮膚移植を申し出てくれましたが、間に合いませんでした。手が見えないようにしていましたが、たくさんの人が手の病気を証言できるはずです。妻をはじめ、病理解剖専門医の息子、皮膚科医のイシドロ・ペラと皮膚科学教授ヒネス・サンチェス・ウルタドなどです。

私は、癌の転移を恐れていました。しかし、それは起こりませんでした。それどころか、約15日で傷は消えてしまい、今のようになりました。完全に治ったのです。これは、福者ホセマリア・エスクリバーの取次ぎのおかげです。

それ以来、通常の仕事に戻り、外科手術もしています。

アルメンドラレホ、1993年6月30日