聖エウジェニオ大聖堂における2016年12月15日の葬儀ミサ聖祭説教

モンセニョール・フェルナンド・オカリスが行ったエチェバリーア司教の葬儀ミサでの説教(日本語訳)を紹介します。葬儀ミサのビデオの音声はオリジナルです(1時間8分)。

今、耳にしたばかりのイエス様のみことばには、その聖心が素晴らしく表明されていました。主は御父と弟子たちに話しかけられます。私たちキリスト信者も同じように、神と兄弟たちと語り合うよう招かれています。福音宣教、使徒職はまさに、聖ホセマリアが「あなたの使徒職はあなたの‹心の中›の生活が溢れ出たものでなければならない」[1]と述べているように、私たちの神との親密さの実りなのです。

オプス・デイ属人区長であり司教であった故人の永遠の安息を祈るこのミサ聖祭の福音書は、ハビエル・エチェバリーア司教が私たちにキリストを愛し、人々を愛するよう懸命に教えていたことを思い起こさせます。エチェバリーア司教が、その日のミサの聖書朗読やミサの祈りの言葉についてのコメントをしない日はありませんでした。説教や霊的な語り合いにおいてはもちろんですが、些細な日常生活においてもそうでした。そして、それには常に祈りが伴っており、周りの人たちにも祈るよう招いていました。教皇様のため、シリアの平和のため、自然災害の被害を受けた人たちのため、難民のため、失業者のため、そして、これも聖ホセマリアから教わったように、特別の愛を込めて病人たちのために祈りました。長期の旅行からの帰途、病人を見舞うため病院に立ち寄ることもありました。エチェバリーア司教の心には全ての人々が入っていました。オプス・デイの創立者から「この世を熱烈に愛すること」を学びました。聖ホセマリアがこう説明しているからです。「この世で神に出会います(…)。世の中の種々の成果や出来事において神はご自分を明らかに示されるのです」[2]。そしてエチェバリーア司教はこのように現実の生活、出来事、そして神のいつくしみが示される美しい真実のエピソードを愛しました。

ある挑戦を受けて立たなければなりませんでした。聖ホセマリアと福者アルバロという二人の聖人の後継者になるということです。エチェバリーア師は自分が同じレベルではないことを自覚されていました。しかし同時に、希望を失うことなく、精神的な強さと勇気をもって前進しました。なぜなら、師は、神の愛の神秘を啓示された小さな者たち(マタイ11,29参照)の一人だったからです。

子どもの頃からキリストの愛を知りました。最初は家庭において、その後、聖ホセマリアに出会い、人生に大きな光がさし、キリストの深い愛の美しさを見出したのです。当時、聖ホセマリアに初めて会った後、しばらくして何人かの若者が聖ホセマリアと車に同乗したとき、男女の愛の歌を歌うのを聞いたことを良く思い出していました。聖ホセマリアはそれを神様のレベルに上げていました。「私は愛を手に入れた。私を喜びで満たし、日々の生活をわくわくしたものにする愛を」。その愛が、私たちに対する神の愛であり、聖霊が私たちの心に、神を愛し、人々を愛するための愛を注いでくれるということを理解したのです。イエスは「わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11,30)と仰せになりましたが、その軛は愛だからです。「わたしがあなたたちを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15,12)。

ハビエル・エチェバリーア師が叙階の秘跡を受けたのは非常に若いときでしたが、すでにミサ聖祭はその生活の中心であり根源をなすものになっていました。第二バチカン公会議が教えているように感謝の祭儀は「あらゆる福音宣教の働きの源泉であり頂点」[3] だからです。60年以上もの間、カズラ(ミサの祭服)を着る際、主の甘美な軛を思い起こさせる教会の祈りを心のうちで唱えていました。それは、私たちのために十字架上で死去され復活されたイエスにおいてこの上もない形で示された広大な主の愛といつくしみなのです。

聖ホセマリアの模範と教えに従った、ハビエル・エチェバリーア師は大きな心の持ち主で、許すことと同じように許しを願うこともできました。ゆるしの秘跡を心から愛していました。この秘跡によって、イエスに私たちの心の中に入っていただくのです。そしてフランシスコ教皇が書かれたように「神が各人の生活に入り込むことによって、愛による完全な自由を」[4] 自分のものにします。属人区の総代理を務めていたエチェバリーア師は、神の民のこの小さな部分を率いる使命のあった福者アルバロ・ポルティーリョを助ける以外の目的をまったく抱きませんでした。後ほど、聖ヨハネ・パウロ二世により属人区長に任命されてからは、霊的な子どもたちになった人たちが、神のお望みの聖性を真剣に求め、特に家庭や社会における仕事や日常生活の諸活動を通して、友だちと共に聖性を追求することで周りに神の愛を広げるよう助け励ますことに誠心誠意努めました。事実、帰天当日まで皆の忠実のため祈っておられました。

耳にしたばかりの福音書に全ての秘訣を見つけ出すことができると思います。それは祈りであり、聖霊を通してキリストにおいて神の子にしてくださった愛深い神の現存の下に生きることです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(マタイ11,25)。全く、聖性とは私たちにおける愛徳の充満以外の何ものでもありません。神から与えられた能力を開花させ、自己を忘れて他者に向かい、キリストの命に与ることです。つまり、永遠の御父の唯一の御子によって養子とされた者として神との父子(おやこ)関係を深めていくことです。エチェバリーア司教の心には、聖パウロがローマ人への書簡で言及している神の子の希望が燃えさかっていたと言えるでしょう(ローマ8,19参照)。

ご臨席の枢機卿様と司教様方、司祭職における兄弟や修道者の方々、同じく市当局の皆様にご挨拶申し上げます。エチェバリーア師のための私たちの祈りに一致してくださり、人々への奉仕に自己を捧げ尽くした師の生涯を共に感謝してくださることに御礼申し上げます。

ここで、特に属人区の信者のことを考えながら、いささか付け加えたいと思います。私たちが22年間、パドレとお呼びしてきた方がここにいらっしゃるとしたら、確かに、教会と教皇様への愛を深め、私たち同士、またキリストにおける全ての兄弟たちとの一致のうちに留まるため、この日々を活用するよう頼まれるでしょう。そして、特に晩年には繰り返すことが一段と多くなったあの文言を繰り返されるでしょう。「心から愛し合いなさい。その愛を日毎に深めるように!」と。これは口先だけではなく、パドレが細やかな愛を示すのを見ると感動せずにはおれませんでした。例えば、帰天前日、「私の世話をしている多くの人を見ると自分は人々を邪魔しているのではないかと心配だ」と言われたことを思いだします。私はすぐさま答えました。「とんでもない、パドレ、あなたこそ私たち皆を支えてくださっているのですよ」。

愛する兄弟たちよ、全ての恩恵はマリアを通ってもたらされます。パドレは心から聖母を愛していました。聖ホセマリアと福者アルバロと共に多くの聖母巡礼所を訪れましたが、中でもメキシコのグアダルーペの聖母巡礼地には、その後、属人区長としても巡礼しました。み摂理によって、パドレはグアダルーペの聖母の祝日12月12日に天に召されたのです。帰天当日、容態が悪化したとき、ある司祭が、「よろしければグアダルーペの聖母のご絵を正面に据えましょうか」と尋ねると、パドレは、「必要ありません。もう見ることができないから」と答えた後、「いずれにしても、聖母がすぐそばにおられると感じている」と言い足されました。この忠実な善き牧者を私たちにお与え下さったことを主に感謝しつつ、私たちのハビエル・エチェバリーア師のための祈りを、spes nostra私たちの希望・聖マリアの御手に委ねましょう。


[1] 『道』961番。

[2] 『会見記』70番。

[3] 第二バチカン公会議、「司祭の役務と生活に関する教令」5番。

[4] フランシスコ、使徒的書簡Misericordia et Misera, n.2。