​46.イエスの奇跡を如何に説明しますか?

イエスに対するユダヤ人や異教徒の最も古い非難の中に、イエスは魔術師であるというのがあります。

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2世紀にチェルソがナザレの教師は魔術を行うと非難しましたが、オリゲネスはそれを論駁しました。聖ユスティノ、アルノビウス、ラクタンティウスもこの点に言及しています。また、2世紀に遡るユダヤのある伝承にも魔法に対する非難が含まれています。いずれの非難も、イエスの存在やその奇跡を否定するものではなく、その動機についての非難だったのです。つまり、イエスは個人的な利益と名声を望んで奇跡を行ったと言っているのです。これらの主張から、福音書が示しているように、イエスの歴史的な存在並びに奇跡を行う人間としての評判をうかがうことができます。従って、こんにち、イエスの生涯に関する証明をしていると言われる資料の中に、悪魔払いや治療を行ったという事実が記されているということになります。 


 それにもかかわらず、同じ時代に奇跡を起こしたことで知られている他の人物との関係を見ても、イエスは特別です。イエスが行った「奇跡の数」とその「意味」という点で、他の奇跡とは際立った違いがあります。他の人たちが仮に奇跡を行ったことを認めたとしても、イエスの奇跡は全く異なる性格の奇跡でした。「奇跡の数」に関して言うなら、イエス以外の者たちは僅かの奇跡しか行っていません。イエスの場合、マタイによる福音書に19、ルカに20、そしてヨハネに8の奇跡が記されています。それに加えて共観福音書とヨハネには他にも、イエスが行った他の多くの奇跡への言及があります(マルコ1,32-34、3,7-12,6,53-56,ヨハネ20,30参照)。「奇跡の意味」に関してもイエスの奇跡は他のいかなる魔術師の奇跡とも異なっていました。イエスは奇跡の恵みを受けた者が神の恩恵に感謝し、生活を改めることを目的として奇跡を行いました。自分自身に対する賛美や栄光を求めなかったことの証拠として、イエスは奇跡を行うことにあまり乗り気でなかったことをあげることができます。イエスの奇跡には独自の「意味」があったのです。

 イエスの奇跡は神の国との関係において理解できます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12,28)。イエスは神の国を始め、人々が信じるようにと、その奇跡によって呼びかけたのです。この点はイエスの奇跡の基本かつ特徴であって、その奇跡と神の国とは不可分なのです。

 イエスの奇跡は、医者のように技術的なものではなく、魔術師のように悪魔や天使の行為でもなく、神の霊の超自然の力によるのです。

 従って、イエスが奇跡を行ったのは、神の国がイエスのうちに現存することを確認するため、悪霊の決定的な敗北を知らしめるため、そしてイエスご自身に対する信仰を深めさせるためでした。奇跡は単に驚くべき出来事であるだけはありません。奇跡的な出来事そのものよりも更に深い意味を伴った神自身の行為として考えて始めて説明できるものです。自然界に対する奇跡は、イエスのうちに働く神の力が人間世界のかなたにまで広がること、また神の力が自然を支配することを示す証拠です。治療の奇跡や悪魔払いは魂を脅かす悪から人間を救う力をイエスが示したことの証拠です。これらすべての奇跡は、もう一つの霊的な現実を示しています。すなわち、肉体の治療―つまり病気の隷属からの解放―は、罪の奴隷状態からの解放という霊的治癒を意味します。悪霊を追い払う力は、悪に対するイエスの勝利を示します。パンを増やす奇跡は、聖体の賜物を暗示しています。イエスが鎮めた嵐は、波乱に満ちた困難なときに私たちをキリストへの信仰へと導きます。ラザロの復活は、キリストが復活そのものであり、終りにおける私たちの復活の象徴です。