​12. 償いの習慣に対するイエス・キリストの姿勢

他の宗教と同様、償いに関する習慣はイスラエルの民に深く根付いていた。彼らは生活を改め、神への回心を望む証として、祈り、献金、断食、灰の儀式、亜麻布の被服などの多くの習慣を執り行っていた。

歴史学者や聖書の研究家が一致して唱える通り、イエス・キリストの教えは「神の御国」を中心とするものである。また、イエス・キリストはその「神の御国」の実現に不可欠なものとして回心が必要と教えておられる。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1章、15節)。イエスが言う償い、すなわち回心とは深い心の回心を意味する。しかし同時に、その心の回心に応じて生活をも回心し、償いと言えるような実りをもたらすものでなければならない。つまり償いは、行いや振る舞いに表れて初めて意味のある真の償いと言えよう。実際、イエスは償いに従じたその生涯において、「神の御国」と償いは切り離すことができないことを示してくれた。イエスは断食し(マタイ4章、2節)、快適な場所での休憩を捧げ(マタイ8章、20節)、祈りに夜を徹し(ルカ6章、12節)、そして何より十字架で自らの命を捧げた。

イエスの初代の弟子達はその教えを受け、イエスについていくということは彼の通り生きるということと悟った。この点において聖ルカは、キリスト者はキリストが生きた通り、日々の十字架を背負って生活する必要があると最も強調している福音記者である。すなわち、イエスが弟子達に示した通りである。「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(ルカ9章、23節)。この様に、初代キリスト者は後も神殿で祈りを捧げ(使徒行伝3章、1節)、断食などの償いを続けた(使徒行伝13章2-3節)。また、断食の際はイエスの教えに従った「また断食をする時には、偽善者がするように陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたが断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知られないで、隠れたところにおいでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6章、16-18節)。
更に、キリストは十字架での死により人類を罪から救われた。このキリストの十字架の死の値打ちから、初代キリスト者は、償い(特に断食、祈り及び献金)や苦しみを捧げることは回心のみならず、キリストの十字架での犠牲にともに参加し、人類の救いに貢献できる方法と認識した。これは、聖パウロの記述「キリストの体となる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、私の肉体をもって補っている」(コロサイ人への手紙1章、24節)に記されている通りであり、現代の教会において行われている通りである。