​1. イエスについて実際には何が分かっているのですか。

イエス・キリストについては、同時代の大部分の人物よりも遥かに多くの確かな情報があります。

キリストを知る

イエス・キリストの生涯とその死去の証人たちが伝えた資料、すなわちイエスに関する口頭の伝承と文書、中でも四福音書です。イエス・キリストが設立し、今なお存続する信仰共同体の中で伝達されてきたものです。その共同体こそ、歴史を通してイエスに従った無数の人々、最初の弟子たちが絶え間なく述べ伝えた資料を通してイエスを知った人々からなる教会です。偽(ぎ)福音書や聖書以外の文書に記述されていることがらには、忠実に教会の中で伝えられてきた福音書の正典に新たな資料を加えるものはありません。


 啓蒙主義の時代までは、イエスについて知りうることは福音書に書かれてあると誰もが信じていました。しかし、福音書は信仰の観点から書かれた書であるという理由で、その内容の客観性に疑問を投げかける歴史家が19世紀になって出てきました。この人たちによると、福音書の著述はイエスの行動と言葉ではなく、イエス復活後数年を経てから主に従う人たちが信じたことであるというのです。それ以後、20世紀の半ばまで、福音書の真実性を疑問視する傾向が現れ、ついにはイエスについては「ほとんど何も知ることができない」(ブルトマン)と主張するに至りました。

今日では、歴史学の発展と考古学の進展、古代の資料に関するより多くより深い知識獲のおかげで、一世紀のユダヤ世界に関する専門家の言葉を引用すれば、「イエスについて多くを知ることができる」(サンダース)と言えます。たとえば、同じ著者は歴史の観点からイエスの生涯とキリスト教の起源に関して「疑問の余地のない八つの事実」があると主張しています。1)イエスは洗礼者ヨハネの洗礼を受けた。2)イエスは人々に教えを述べ、また治癒を行った人物である。3)弟子たちを呼び、十二人について話した。4)イエスは自らの活動範囲をイスラエルに限った。5)神殿の役割について論争を続けた。6)ローマ当局の手によってエルサレムの外で磔刑(たっけい)に処された。7)イエスの死後、彼につき従った人々が同じ運動を続けた。8)少なくともユダヤ人のある者たちが新しい運動のグループを迫害した(ガラタ 1、13.22 とフィリポ 3,6)。さらに、この迫害はパウロの宣教の終わり頃まで続いた(コリント② 11,24とガラタ5,11、また、マタイ23,34や10,17参照)。

 歴史家たちが一致して認める以上の点を最低限の基準とすれば、福音書に含まれている他の資料が歴史的な観点からどれほどの信憑性を持つかについて決定することができます。資料に関する歴史的な諸基準を適用すれば、福音書に述べられていることがらがどの程度の一貫性と蓋然性を有するか、またその著述が本質的に確実であるか否かを確定できるのです。

最後に、次の点を思い出す必要があります。すなわち、イエスに関する私たちの知識は、イエスの証人たちが信じるに値すること、また伝承自体が伝承を批判するという理由から、信用できるもの・信じるに値するものであるということです。それだけではなく、伝承が伝えることがらは歴史批判の分析に耐えうるものです。確かに、伝達された多くのことがらのうち、歴史家が援用する方法によって証明できるものは多くありません。しかし、これらの方法によって証明できないから実際には起こらなかったという結論を引き出すことはできません。伝えられたことがらの蓋然性(がいぜんせい)を示す資料を提供するに過ぎないのです。しかも、蓋然性は決定的なものではありません。蓋然性から見れば起こりえないと考えられる事柄が、歴史的に起こっているからです。福音書の資料が理性にかなっており、また証明可能なことがらとの一貫性があるという点、これこそ疑う余地なく真であると言えます。いずれにせよ、教会の中で生まれた福音書の信憑性を保証し、それをどう解釈すべきかを教えるのは、教会の伝承(聖伝)なのです。