『ダヴィンチ・コード』とオプス・デイ

この本を読んで多くの人が、キリスト教の歴史および神学に関する批判に好奇心をそそられました。しかし、この本はこれらの問題に関する信頼できる情報源になりません。これは、あくまでも学術書ではなくフィクッションです。

本書には、いくつかの重大な誤りが含まれています。例えば、4世紀にローマ帝国のコンスタンティヌス大帝が、政治的な理由からキリストを神格化し、それを世間に広げたとしていますが、歴史上の証拠は、新約聖書や初代教会の著作によって、最初からキリストの神性が明確に示されています。

また、オプス・デイに関する奇妙な描写は全体的にも詳細な点でも間違っています。常識ある人なら、事実無根の荒唐無稽な小説で済まされるでしょうが、本書をもとにオプス・デイが評価されるならば、まことに遺憾であり、その誤りを正さないのは無責任になるでしょう。以下に様々な誤りについて明らかにしようと思います。

1. 現代社会、第二バチカン公会議とオプス・デイ

この小説では、オプス・デイは保守的で現代社会を敵視し、第二バチカン公会議に反対していたと紹介されますが、実際は正反対です。信徒が社会の中で神から呼ばれているとする考えを実践し、公会議の先駆的な立場を担いました。オプス・デイは常に教会の教えを支援し、促進しています。

□ヨハネ・パウロ二世教皇

オプス・デイは、各自が仕事をしている場所で社会の中に踏みとどまり、生活を聖化することを目指しています。世間で福音の精神を実践することで社会を変え、キリストへの愛で社会を償うのです。これは真に偉大な精神であり、信徒の役割に関する神学を先取りしたもので、第二バチカン公会議の前後を区別する目印になりました。

(1979年8月27日、オッセルバトーレ・ロマーノ紙)

□エリザベス・フォックス・ジェノヴェーズ教授

オプス・デイは、社会の中で生活や特に仕事を聖化するという新たな固有の使命のために働いています。「オプス・デイ」という名称は、はラテン語で「神の仕事」という意味で、オプス・デイの根本的な特徴をよく表わしています。普通の人が、普通の生活で、どんな仕事でも神に捧げ聖化できるし、日常生活を聖なるものに変えることで、自分自身をも聖化できるのです。オプス・デイのメンバーには、専業主婦、政治家、大学教授、教師、学校経営者、科学者、ソーシャル・ワーカー、ビジネスマン、OLなど、様々な職業に携わる人々がいます。 (2004年1月3日、歴史学会ジャーナル誌)

□教理省長官ジョゼフ・ラッツィンガー枢機卿

私は、オプス・デイの特徴がよく分かりました。教会の偉大な伝統への素直な信仰と堅い忠実。これらが、学問や経済、日常の仕事など、社会のあらゆる課題に立ち向かうことと深く結び付いています。神と絶え間なく対話し、神と親しく結ばれた人は、勇敢にこれらの新しい課題に対応することができます。

(2002年10月6日、オッセルバトーレ・ロマーノ紙)

□平山高明司教

『信徒の召命は聖性にある』と公会議が断定し、その特徴は在俗性にあると教えました。これは、公会議に先立って福者ホセマリアが教えていたことです。これは、私たちに改めて「福音宣教とは何か」「パン種であるとは、どういうことか」を問いかけます。キリストは「天の国はパン種のようである」とおっしゃいましたが、自分の置かれた身分、家庭において、あるいは社会人として、職業人として自分の務めを、愛と信仰を持って聖化していくことを福者が説かれたときに、初めて信徒の使徒職の視野がぐんと広がったのです。 (2001年6月23日、夙川カトリック教会での説教)

□オプス・デイ創立者、聖ホセマリア・エスクリバー

はっきり言いますが、私の大きな喜びの一つは、第二バチカン公会議が信徒の聖なる召命を高らかに宣言したことです。 (1996年5月16日、フランスFigaro紙)

2. オプス・デイ、教会、社会における女性の役割

この小説では、オプス・デイが社会や教会における女性の立場や役割に関して、否定的あるいは無知な見解を有していることになっているが、実際は次のとおりです。

□ハビエル・エチェバリーア司教(オプス・デイ属人区長)

社会のあらゆる分野で働くオプス・デイの女性を見て、しばしば神に感謝を捧げています。企業、病院、工場、大学、教育現場などで働いています。裁判官、政治家、ジャーナリスト、芸術家もいます。また、家庭の仕事にプロとして専念する主婦もいます。いずれも、自分の道を誇りに思って歩み、人々から尊重され、女性としての尊厳を自覚しています。

( 1996年1月21日、チリEl Mercurio紙のインタビュー)

□聖ホセマリア・エスクリバー

女性も男性と全く同じ人として神の子としての尊厳を持っていますから、当然「平等の権利」を有しています。しかし、この基本的な平等を出発点として各々が達成すべきは、自己に相応しいものであるはずです。(・・・)

社会全体の中で女性が活躍することは、ごく自然で意義深い現象です。前に述べたように、女性がより大きな役割を担う機会になります。現代の民主主義の社会では、女性が政治の分野で積極的な役割を担う権利が認められるべきです。そして、この権利を行使したいと望む女性すべてに、そのために望ましい条件をすべて整えなければなりません。

(1967年10月「会見記」)

3. 富や権力とオプス・デイ

この小説ではオプス・デイが富や力を狙っているように描写されていますが、現実のオプス・デイとその信者は世界中で人々が信仰を深め、それを日常生活に生かすよう人々を支援する活動に力を入れています。各自が自分の置かれた場所で人々との信頼を築きながら成長し、いつもの仕事を通して人々に奉仕し社会に貢献するのです。多くは平凡な市民として能力を発揮しています。ある者は政治家や経営者として活躍していますが、オプス・デイがそれらに関わることはありません。

□マザー・テレサ列聖請願人ブライアンM.C.神父

貧困、病気、見捨てられること。聖ホセマリアはこれらを武器としてオプス・デイを前進させる戦いに勝ったのです。オプス・デイの創立者と同じ事がマザー・テレサにも当てはまります。信仰が拠り所であり、働きの土台になっています。その信仰の目で全ての人々の中にキリストを見ていたのです。 (2002年2月27日、列聖請願文)

□ルチアーニ枢機卿(ヨハネ・パウロ1世教皇に選出される1ヶ月前)

オプス・デイは、これまで新聞に大々的に取り上げられてきましたが、しばしばそれらの記事は的外れでした。その広がり、人数、所属している人の社会的な地位、これらに惑わされて、オプス・デイを権力の組織や鉄の結束を持つ団体というイメージで見ていました。実際は正反対です。聖なる人を目指し、周囲の人々も聖なる者へと導き、励まし、人々に奉仕し、自由を尊重しています。 (1978年7月25日、イタリアGazzettino紙)

□聖ホセマリア・エスクリバー

オプス・デイは地上の活動に権力を持たないし、それを望みません。オプス・デイの唯一の関心事は福音を社会の隅々まで広げることだからです。そして、あらゆる分野の人々が社会での活動を通して神に仕え、神を愛するようになることです。オプス・デイの信者は、いつ、どこにいても、それを追求しています。また、人々にもそれを勧めます。

(1968年5月「会見記」)

□島本要大司教

ホセマリア・エスクリバーは、聖人になる道を教えてくれました。それは、一般信徒が修道者のような生活をすることではなくて、それぞれの身分に応じて、たとえば父親は父親として、母親は母親として、教師は教師として、労働者は労働者として、それぞれ自分の果たすべき任務を忠実に遂行することによって、神が喜びとされる聖なるもの、正しい人になるのです。そして、社会人として、人間として当然果たすべき務めを果たすことによって、聖なる者、正しい人となるのです。

(1998年9月26日 浦上カトリック教会での説教)

4. セクトとオプス・デイ

オプス・デイがカトリック教会の中のセクトであるかのような記述が見られるが、オプス・デイは教会の位階組織に組み込まれた正当な組織です。1982年11月28日付で「属人区」として設置されました(属人区は教区と同様に司教省の下にあり、修道会等とは別の管轄です)。さらに、オプス・デイの特徴の一つとして、教皇と教会の教えに対する忠実が挙げられます。その全ての信者は、教会の伝統と習慣を守り実践しています。また、他の修道会等と良好な関係を築き、教会の信仰の多様性を素晴らしいものと考えています。創立者のホセマリア・エスクリバーは、2002年10月6日にヨハネ・パウロ二世教皇から聖人の位に挙げられました。

□ヨハネ・パウロ二世教皇

私は使徒憲章『ウット・シットUt sit』(1982年11月28日)をもってオプス・デイを属人区として設置しました。このオプス・デイが位階制に属するという本質こそ、司牧的な考察の出発点であり、実際面でさまざまに適用していくうえで役に立ちます。まず、強調しておきたいことは、第二バチカン公会議が属人区という形態を想定するに当たって既に考えていたように、オプス・デイ信徒の地方教会および属人区への所属という事実によって、属人区固有の使命が地方教会全体の福音宣教義務に合流している点です。

(2001年3月18日、オッセルバトーレ・ロマーノ紙)

5. 犠牲とオプス・デイ

オプス・デイは教会の一員として、償い、犠牲も含めて教会のあらゆる教えを宣べ伝えてきました。イエス・キリストご自身が望んで十字架で苦しみ(御受難)を受け、その死によって人類を罪から解放し、贖ってくださいました。同じように、キリスト信者も「自分自身に死ぬように」求められています。だから、教会は信者に犠牲を捧げるように命じています。復活を準備する四旬節には特に強く勧められ、特定の日には「大斎」と言って断食を捧げます。また、教会の伝統で、苦行帯や鞭が使用されました。アッシジの聖フランシスコ、アビラの聖テレジア、聖イグナチオ・ロヨラ、聖トマス・モア、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネー、リジューの聖テレーズなど、聖人たちの多くが活用しました。オプス・デイでもこれらを活用しますが、小説のような誇張したやり方ではありません。また、大きな犠牲より、日々の生活や仕事における奉仕と犠牲の精神が大切にされます。

□聖書

それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(ルカ9:23)

今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイ1:24)

□カトリック教会のカテキズム(1997年)

わたしたちはキリストのいけにえと結ばれることによって、自分たちのいのちを神へのいけにえとすることができるのです。(2100番)

完徳への道は十字架を通り越すものです。聖性は、自己放棄と霊的戦いなしには得ることができません。霊的進歩は修行と禁欲とを伴うものであり、それを通して真福八端の平和と喜びのうちに生きるように徐々に導かれていくのです。(2015番)

□ヨハネ・パウロ二世教皇

十字架を抱き締めるとき、それは愛の印となり、完全な自己放棄を示します。十字架を担ってキリストに従うとは、愛の偉大な証を立てキリストと結ばれることです。

(2001年2月14日、世界青年の日メッセージ)

6. オプス・デイ、真実の姿

□ジョン・メイヤー大司教(ニューヨーク)

疑問は次の点に尽きるでしょう。すでに新旧合わせて多数の修道会が存在しているのにもかかわらず、なぜ神様はオプス・デイを望み、なぜ教会はオプス・デイを属人区にしたのでしょうか?

この「属人区」という名称は専門的な用語に聞こえますが、実際はすごく単純なことです。司教省が出したオプス・デイに関する宣言の中に「時代が要請する特有の宣教と司牧に教会が敏感に応えた確かな印である」と述べています。属人区の信者は世界に広がる神の民の一部で、固有の使命を帯びています。オプス・デイの場合、家族生活、社会生活、特に仕事を通して聖性を目指すキリスト信者の普遍的な召命を人々に気付かせ、広めることです。これが、教会がオプス・デイ属人区に期待している奉仕です。

オプス・デイの仕事は常にパーソナルなものであるべきです。ある時は、たった一人の霊魂のためです。私たち誰もが、道を示してくれる生きた模範を必要としていますし、子供が親から祈りを教えてもらうように、どうやって祈ればいいかを個人的に指導してもらうことが必要です。親切と謙遜であること、徳を身に付けることを霊的指導を通して習うでしょう。骨の折れる辛い仕事ですが、同時に当然のことでもあります。母親が幼い子供に対して、職場で同僚や友人に対して、学生がクラスメイトに対して、実践すべきことです。10歳の子供が少年野球のチームメイトに「日曜日にごミサに行こう」と励ますなら、その子はすでにその仕事(オプス・デイ)をしているのです。

このように、オプス・デイの役割はコーチのようなものです。個人的に指導し助言を与え、ゴール目指して諦めないように力づけ、努力が無駄に思えても手綱をゆるめたりしないように励まします。しかし、スターチームのコーチではありません。オプス・デイの信者は、カトリックのエリートでもないし、スーパーマンでもありません。ただの信者にすぎません。ただし、人々の必要に素早く応え、仕えたいと望んでいる、それがすべてです。